ドナドナ

本日、父が乗っていたクルマがディーラーに引き取られていきました。

平成20年式、ホンダゼスト。
新車で買って3年、走行は23000kmほど。

もったいないっちゃもったいない。

でも、母も姉も免許ないし、ウチにはウチでクルマあるし、まぁ仕方ないです。

父がゼストにしたのは足の悪い母が一番乗り込みやすかったから。
あれより高くても低くてもダメ。あの高さが丁度いいんだそうです。
何よりも母を思って車種を選ぶのは父らしい。
昔はマークIIがいいとか言ってたのに(古っ・・・・)。

今後の母の送り迎えにはFITを使うことになります。
ゼストよりシートが低いので母は苦労するかもしれません。

ま、シャコタンOVALよりはマシってことで(汗)

家族

親父が死んでからというもの、しょっちゅう実家との往復を繰り返しています。

いろいろ手続きとかしなきゃいけないのがいっぱいあって、動けないお袋に代わってあっちへ行ったりこっちへ行ったり、そして実家に戻ってまたどこか。さらに以前は親父が送ってたお袋の病院通いもあるので、普段なら引きこもりのように仕事してるのがウソのように移動が多い毎日です。

ま、一生に何回もあることじゃないですしね。

ヨメさんも子供たちも協力してくれてるし。

特にヨメさんにはいくら感謝しても足りないくらい。

家族を失うのは悲しいけれど、同時に家族の暖かさも感じる今日この頃です。

稔りの証

いつまでも落ちたままでは先にも進めない。
いや、父が亡くなって間もないですから当然悲しみはあるわけですけど、悪いことばかりでもなかったので今日はそのことについて書きます。

 

病院で父が息を引き取ると、悲しみに暮れる間もなく早々に病院からは遺体の引き取りの話があり、葬儀屋に連絡するとすぐに通夜の段取りが始まります。遺族にとっては生涯に何回もないことでもアッチにしてみりゃ日常ですから当然のことで、日時はいつ、これはこうでといくつかの選択肢の中から選んでいくような感じで事務的に事は進んでいきます。
その中でも我々家族が困ったのが「通夜には何人くらいいらっしゃいますか?」というもの。
生涯営業一筋で生きてきた父は仕事柄方々に顔が広く、交流関係も多岐に渡るというのは我々も知ってはいましたが、それがどれくらいのもので、実際通夜に来るほどの間柄となるとどんなもんなのか、正直誰もよくわかりません。母の記憶を頼りに家族で相談し、これくらいは来るだろうという人数+20~30人くらいの椅子を用意しましょうということになりました。

そして通夜当日。
私ら家族の予想はものの見事に外れました。

受付に並ぶ人の数が明らかに多い。葬儀屋の担当の方が慌てて飛んでくる。このままいくと予定の倍くらいになるかもしれないと。

私も母も姉も、父を低く見積もり過ぎていたのです。

通夜振舞いの席ではいらっしゃったみなさんから父の話をたくさん聞かせていただきました。

「お父さんからはもっとたくさんの事を教わりたかった」
「お父さんがいねかったら今の自分はなかったて」
「お父さんにはね、敵が一人もいなかったよ。全部仲間だった」

お帰りになる時も私なんかより全然若いまだ20代であろう方が母に父との思い出を語り、涙を流していました。

 

私たち家族の知らない父。

どこにでもいる孫に激甘のじぃちゃんだと思ってたのに。

こんなにも多くの人と関わり、支え、支えられ、愛されていたなんて。

死んで、最後の最後で父の人生の縮図を見せてもらったような気がしました。

父を失い、もちろん悲しい気持ちが一番なのだけれど、そんな父を誇りに思うと同時に父が羨ましく思え、そしてどこか晴れ晴れとした気持ちにもなりました。

 

住職には「釋 証稔」という法名をつけていただきました。

父の名は「稔」といい、親戚の話では9月生まれにちなんで稲穂が「稔る」ということだそうで、営業一筋で実際には一度も稲穂を稔らせることはなかったのですが、多くの方々との間柄を稔らせ、人生においてその証を立ててきたという意味を込めて「証稔」とつけたそうです。

そのお話を聞いて、正にこの通夜にいらっしゃった皆様が父にとっての稔りの証なんだと思いました。

 

ちなみにこの住職がいらっしゃる専福寺というのは元々は妻の実家がお付き合いしていたお寺で、父と母は以前は別のお寺の檀家だったのですが、私が結婚してからしばらくした頃にそのお寺が代が変わって急に経営色が強くなったために離れ、何年かはお寺のない時期がありました。その後、妻の祖父が亡くなった時に葬儀に出た父が住職の話に感銘を受け、勝手に「死んだらこの寺に入る」と決めた次第なんです。
もちろん私と妻は寺の事まで考えて結婚したわけじゃないですが、私ら夫婦が父の稔りの一つとなるきっかけを生んだというのはなんだか不思議な縁を感じます。

 

果たして自分は父のような稔りがいくつできるのでしょうか。
あの通夜を思い出すと死んでも父を超えることはできないような気がしてます。

父、逝く

10月2日の日曜、父が亡くなりました。
享年71歳。
前立腺癌でした。

4日の通夜並びに5日の葬儀には多くの皆様にご参列ご会葬賜りありがとうございました。
たくさんの方々に見送られ、父もさぞ喜んでいると思います。
また、私へもお電話、メール、弔電、コメントなど頂き感謝致します。
尚、父逝去につきましてmixi及びtwitterでのご連絡になりましたことをお詫び申し上げます。

 

 

父の病気がわかったのはおよそ1年半前。
2年前の夏に母が心肺停止で救急車で運ばれ、まだ退院できないでいる時でした。

体調不良を訴えていた父が近所のお医者さんから「すぐに検査しなさい」と紹介された先はがんセンター。後日、検査の結果が出た際に父から「家族も一緒に話を聞いてくれって言うから一緒に行ってくれるか」と、入院中で動けない母の代わりに私は父と共にがんセンターへ。そこで先生から告げられた病名は前立腺癌。癌は既に全身に骨転移しており手術は不可能、ただし他の癌と違って前立腺癌の場合は抗がん剤や放射線治療で進行を遅らせることはできるかもしれない、長い人は5年以上生存した例もあるとの話で、不確定な余命宣告を受けたようなものでした。

恐らく父はショックだったと思いますが、私ら家族にそういった顔は見せず、むしろ入院中の母の心配ばかりしていました。母が退院してからも日常の世話から病院の送り迎えまでこなし、仕事も行くし、趣味の釣りにも行くし、母を連れて親戚の家に遊びに行ったり、孫に自転車買ってあげたり、抗がん剤の副作用で髪が抜け落ちてもまるで病気であることなどウソのように以前と変わらぬ父であり続けました。

しかし今年のお盆辺りから急激に食欲が落ち、粥を食べるのもやっとな状態。元々線の細い体をしていたのが骨と皮だけのようにやせ細って行きました。当然入院となったのですが、先生からは「とにかく食べて動いて体力を戻すしかない」と言われるばかりで、逆に言えば既にそれ以外に施しようがなかったのでしょう。点滴を打ち、病院食をなんとか食べ、歩ける程度まで回復すると退院、そしてまた入院というようなことを何度も繰り返しました。私は痛々しいほど衰弱した父の姿から残された時間がそれほど長くはないと覚悟しました。

亡くなる一週間前の日曜。ちょうど西会津のイベントがあった日です。少し前に一時退院していた父から「庭の整理を手伝ってほしい」と言われていたので、西会津に行く皆さんを見送ったあと、子供二人を連れて実家に行きました。庭より自分の体を心配しろよと内心思っていましたが、父なりに後のことを考えていたのかもしれません。庭の整理と言ってもプランターを移動するとか雑草抜くとかそんな程度。私一人でも30分もかからないようなものでしたが、子供たちにとっても父と触れ合える残り少ない機会と思い連れていき、子供たちに積極的に手伝ってもらいました。結局その翌日にまた入院することになり、孫と話ができたのもそれが最後となってしまいました。

亡くなる3日前。替えの下着を届けに父の病室へ。体の不自由な母は頻繁に見舞いに行くこともできなかったので、次の日曜に母と子供たちを連れてくると約束しました。
「今度の日曜、おかぁと子供たち連れて来るっけね」
「おぉ、ありがとな、頼むわ」
これが私と父が交わした最後の会話となりました。

土曜日、病院から「先生からご家族にお話がありますので明日の午前中にご家族の皆様でいらっしゃっていただけますか」との電話がありました。いよいよ覚悟を決める時が近づいてきたのかと思いました。元から日曜には行くつもりだったので母に時間が変わったことと、あまりいい話ではないだろうということを伝えました。

そして翌日の日曜、早朝に病院から「すぐに来てください」との連絡があり、急いで母を連れて病院へ向かいました。前日までは普通に会話できていたのが朝になった急変したとのこと。大部屋か移された個室いた父は既に私らを認識できる状態ではなく、ベッドの上で苦しそうにもがいていました。先生からは「会わせたい人がいたら」という話をされたため、姉を点滴を追加してやや落ち着いた父の元に残して母と共に実家に戻って親戚に連絡。しかしそれから何時間も経たないうちに姉からすぐに戻るようにと連絡があり、急いで病院に戻りましたが一歩及ばず私と母は父を看取ることができませんでした。

ベッドの上で静かに眠る父。
握った手にまだ残るぬくもり。
しかしその手は私の手を握り返すことはありません。
姉の話では本当に眠るように逝ったそうです。

 

思えば30年ほど前に母に心臓の病が見つかった時から父は自分が母を看取るつもりで生きてきたと思います。
私も姉も、そして母自身もそうなるだろうと思っていました。
母方の祖父が祖母が亡くなって半年ほどしてから後を追うように亡くなり、祖父のように妻に精神的依存の強かった父でしたから、母が亡くなって生き甲斐を失ったら祖父と同じような最後を迎えるかもしれないとぼんやり思っていました。

 

70年というのは決して長い生涯とは言えないこの時代。
父の人生は満足できるものだったのだろうか。
悔いはなかったのだろうか。
私と最後の言葉を交わしたあの日でさえ「お母さん、ちゃんとご飯食べてるんだろっかなぁ」と自分のことより母の心配をしていたくらいなので、母が最後を迎える時まで一緒にいられなかったことが唯一の心残りかもしれません。
せめて天国では何の心配もなく過ごせるように、残された私たちで母を支えていこうと思っています。

彼岸花のミステリー

昨日、庭に花が咲いていると妻が言った。

見るとガレージ入口のすぐ横に赤い花が一輪のみ咲いている。

「これ、昨日パパが言ってた彼岸花だよね?」

私は花には詳しくないが、その姿からして彼岸花に間違いないだろう。

そう、確かに私はその前日に妻に彼岸花の話をした。

 

なぜ彼岸花の話をしたかの前にまずは彼岸花について。
先ほど申したように私は花に詳しくないので以下にwikipediaを引用する。

 

ヒガンバナ

全草有毒な多年生の球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。

道端などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるが、稀に白いものもある。その姿は独特で、夏の終わりから秋の初めにかけて、高さ30 – 50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、その先端に包に包まれた花序が一つだけ付く。包が破れると5 – 7個前後の花が顔を出す。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返る。

開花終了の後、晩秋に長さ30 – 50cmの線形の細い葉をロゼット状に出す。葉は深緑でつやがある。葉は冬中は姿が見られるが、翌春になると葉は枯れてしまい、秋が近づくまで地表には何も生えてこない。つまり開花期には葉がなく、葉があるときは花がない。
wikipediaより引用)

リンク先に写真があるので知らなくても「あ、この花見たことあるかも」という方いらっしゃるでしょう。

 

で、なぜ妻に彼岸花の話をしたかと言えば、ちょっと前にtwitterで話題になっていた「今年は白い彼岸花が多く見られる」ということ。
wikiにも書かれているように、白い彼岸花は稀ではあっても咲くのは別に不思議なことではない。
ただ、赤い彼岸花は次の年も赤い花を咲かせ、年ごとに白になったり赤になったりするわけではないらしい。
彼岸花は球根性植物なので他の野花のように種が飛んで生えるということはなく、赤の彼岸花の球根を根こそぎ掘り返して白の球根に植え替えない限りは毎年同じ色が咲くはずである。
それが今年は各地で去年は赤く咲いていたのに今年に限って白く咲く彼岸花が多数目撃されているのだそう。

去年と今年で大きく異なるもの・・・・・・そう、放射能。

現段階で色が変わった原因が放射能の影響だと確定しているわけではなく、あくまでも推測に過ぎないのだが、放射能が彼岸花の遺伝子に何らかの影響を及ぼし、本来赤く咲くはずの遺伝子情報を白に変えたというのは100%ありえないとも断言できない。
多くの方が危惧しています。

 

そして我が家の庭に咲いた一輪の彼岸花。

色は赤。

なら一安心・・・・・とも言えないんですね。

なんせ、私も妻も彼岸花の球根なんて植えてないんですから。

 

・・・・・この花、どこから来たんでしょう?(汗)

 

来年、白く咲いたらもっと怖い。

 

あなたの周りに咲いている彼岸花は何色でしょうか・・・・・?