父が亡くなって今日で1年になりました。
もう1年かと思うのと同時にまだ1年なのかと感じる不思議な時間。
しかし、最近は父の遺影にも笑って子供の近況報告できるようになったことを思えば、この1年という時間はそれなりに悲しみを癒したのかもしれません。
1年前のあの時。
冷たくなった父の手を取った時、多くの方に見守られながら最後の別れをした時、震災から半年経って放射能の不安に怯える中で父の死という悲しみと共に感じたのは「いずれ我が子を自ら送り出すことになるかもしれない」という大きな不安と恐怖。
もちろん今でも忘れません。
そしてあの時、私は亡き父に誓いました。
「父が溺愛した孫は死んでも守る」と。
そして今日は約1ヶ月に渡って行われた新潟市役所前での抗議行動最終日。
最終日とあって私が参加した中では一番多く集まってくれたと思います。
また、今日はIWJも来ていただいて、抗議行動の様子はUSTで中継もされました。
(録画はIWJ新潟でご覧になれます)
この1ヶ月、来てくださった方々は決してヒマがあるとかガス抜きだとか、そういうつもりで叫んでいるのではありません。子供を守りたい、故郷を守りたい、その一心です。
正直、私もまさか自分がこういうことに参加するとは思っていませんでした。でも、声を上げなければ子供が被曝する、子供たちが暮らしていく環境が壊される、そう思ったらいても経ってもいられなくなりました。「父が溺愛した孫は死んでも守る」その思いだけです。
今日は市役所の近くにお住いのおばさまが「うるさいからやめてくれ」と申し入れてきました。確かに毎日お昼に大声張り上げていたら瓦礫受け入れに反対でもなく興味もなければうるさいことでしょう。その点についてはご迷惑をおかけしていることも事実。
そしておばさまは「こんなことしても変わらないでしょう」と言いました。そうかもしれません。いくら反対しても大飯原発は再稼働したし、オスプレイも飛んできた。我々が市役所前でいくら声を上げても瓦礫焼却は強行されるかもしれない。でも、総理官邸前での紫陽花革命は少なからず政府を動かしたじゃないですか(満足できるものではないけど)。声を出しても変わらないかもしれないけど、声を上げなければ100%変わることはない。子供を守るには声を上げるしかないんです。黙ったまま子供に被曝を強いるなんて親ならできるわけがない。
騒音に感じてた方々には大変申し訳ありませんが、ぜひとも瓦礫焼却について真実も知っていただきたいと思います。
新潟は瓦礫ではなく人を受け入れるべき。
新潟に避難してる方々に2度も絶望を味わせてはいけない。
故郷を汚染させて2割を燃やすより故郷を守った上で8割の手助けをすべき。
新潟の人・水・米を守ってください。
市役所前での抗議行動は一旦終了となりましたが、決してこれで戦いが終わったわけじゃありません。瓦礫受け入れが撤回されるまで戦います。
同時に本日最終日を迎えた9月議会で提出された「震災廃棄物の試験焼却予算をカットする修正案」は残念ながら(しかし予想通り)反対多数で否決されてしまいましたが、広域処理に関しての問題点を中山議員があらためてブログで綴っておりますので、そちらも読んでいただいてより問題を理解していただきたいと思います。
⇒ 震災廃棄物試験焼却予算カットの修正案に賛成 | ナカヤマヒトシ通信
さて・・・・・天の父は私のこういう行動、どう思ってるでしょうねぇ。
人情味に溢れ、争いを好まない人でしたから、もしかしたら私の言動に異を唱えるかもしれません。しかし孫が被曝するかもしれない事実を知ればわかってくれるはず。
親父、折れそうな弱い息子に力をください。