8月6日の広島に続き、昨日の8月9日は長崎で原爆の日を迎えました。
今年で67年。
今もなお消えることのない悲しみ。
原爆投下から25年後に生まれた私は子供の頃から戦争の愚かさや原爆の恐ろしさを学んできたわけですが、日本が核廃絶を訴える一方で平和利用を名目に次々と作っていった原発に対しては心の中では「ない方がいい」と思いつつもどこか他人事で、旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起きても、中越沖地震で柏崎刈羽原発がトラブルを起こしても、まさか自分たちが核の恐怖に襲われる日が来ることなど夢にも思わずにいました。
そして昨年、日本は3度目の核爆発を経験しました。
人は本来、実体験によって学び、成長していくものですが、実体験がなくとも自分の親や学校の先生、先輩や上司、果てははるかご先祖様などなど、多くの先人が経験し学んだことを教訓として伝えてくれます。でも、未経験の状態でそれを素直には受け取らなかったりもします。幼い頃は特に、親の忠告など聞かずに痛い思いをするまでわからないといったことが多々思い当たります。
原発もそうだったのでしょうか。
実際に事故が起こるまで危険性を自覚できない。
2度の原爆投下を経験し、チェルノブイリやスリーマイルという前例もあったのに。
でも、今この日本に生きている我々は福島第一原発事故を正にリアルタイムで経験したわけです。
これから数年の間に起こるであろう放射能の恐怖も同時に。
これだけ痛い思いをしたなら、もう懲り懲りと思うのが普通。
なのに既存の原発は廃炉にならないし、安全性なんて担保されていないのもわかっていながら再稼働するし、ウラではコソコソと新設の計画も進んでいる。
広島・長崎の方々が67年経っても忘れず語り継ぐ教訓も、福島第一原発事故では1年で風化するのか。
東日本大震災の発生が予測されていなかったように、いつまたどこで大きな地震や津波が起こるかわかりません。
4度目の核爆発を経験する前に、昨年の事故を最後の教訓にすべきではないでしょうか。