父、逝く

10月2日の日曜、父が亡くなりました。
享年71歳。
前立腺癌でした。

4日の通夜並びに5日の葬儀には多くの皆様にご参列ご会葬賜りありがとうございました。
たくさんの方々に見送られ、父もさぞ喜んでいると思います。
また、私へもお電話、メール、弔電、コメントなど頂き感謝致します。
尚、父逝去につきましてmixi及びtwitterでのご連絡になりましたことをお詫び申し上げます。

 

 

父の病気がわかったのはおよそ1年半前。
2年前の夏に母が心肺停止で救急車で運ばれ、まだ退院できないでいる時でした。

体調不良を訴えていた父が近所のお医者さんから「すぐに検査しなさい」と紹介された先はがんセンター。後日、検査の結果が出た際に父から「家族も一緒に話を聞いてくれって言うから一緒に行ってくれるか」と、入院中で動けない母の代わりに私は父と共にがんセンターへ。そこで先生から告げられた病名は前立腺癌。癌は既に全身に骨転移しており手術は不可能、ただし他の癌と違って前立腺癌の場合は抗がん剤や放射線治療で進行を遅らせることはできるかもしれない、長い人は5年以上生存した例もあるとの話で、不確定な余命宣告を受けたようなものでした。

恐らく父はショックだったと思いますが、私ら家族にそういった顔は見せず、むしろ入院中の母の心配ばかりしていました。母が退院してからも日常の世話から病院の送り迎えまでこなし、仕事も行くし、趣味の釣りにも行くし、母を連れて親戚の家に遊びに行ったり、孫に自転車買ってあげたり、抗がん剤の副作用で髪が抜け落ちてもまるで病気であることなどウソのように以前と変わらぬ父であり続けました。

しかし今年のお盆辺りから急激に食欲が落ち、粥を食べるのもやっとな状態。元々線の細い体をしていたのが骨と皮だけのようにやせ細って行きました。当然入院となったのですが、先生からは「とにかく食べて動いて体力を戻すしかない」と言われるばかりで、逆に言えば既にそれ以外に施しようがなかったのでしょう。点滴を打ち、病院食をなんとか食べ、歩ける程度まで回復すると退院、そしてまた入院というようなことを何度も繰り返しました。私は痛々しいほど衰弱した父の姿から残された時間がそれほど長くはないと覚悟しました。

亡くなる一週間前の日曜。ちょうど西会津のイベントがあった日です。少し前に一時退院していた父から「庭の整理を手伝ってほしい」と言われていたので、西会津に行く皆さんを見送ったあと、子供二人を連れて実家に行きました。庭より自分の体を心配しろよと内心思っていましたが、父なりに後のことを考えていたのかもしれません。庭の整理と言ってもプランターを移動するとか雑草抜くとかそんな程度。私一人でも30分もかからないようなものでしたが、子供たちにとっても父と触れ合える残り少ない機会と思い連れていき、子供たちに積極的に手伝ってもらいました。結局その翌日にまた入院することになり、孫と話ができたのもそれが最後となってしまいました。

亡くなる3日前。替えの下着を届けに父の病室へ。体の不自由な母は頻繁に見舞いに行くこともできなかったので、次の日曜に母と子供たちを連れてくると約束しました。
「今度の日曜、おかぁと子供たち連れて来るっけね」
「おぉ、ありがとな、頼むわ」
これが私と父が交わした最後の会話となりました。

土曜日、病院から「先生からご家族にお話がありますので明日の午前中にご家族の皆様でいらっしゃっていただけますか」との電話がありました。いよいよ覚悟を決める時が近づいてきたのかと思いました。元から日曜には行くつもりだったので母に時間が変わったことと、あまりいい話ではないだろうということを伝えました。

そして翌日の日曜、早朝に病院から「すぐに来てください」との連絡があり、急いで母を連れて病院へ向かいました。前日までは普通に会話できていたのが朝になった急変したとのこと。大部屋か移された個室いた父は既に私らを認識できる状態ではなく、ベッドの上で苦しそうにもがいていました。先生からは「会わせたい人がいたら」という話をされたため、姉を点滴を追加してやや落ち着いた父の元に残して母と共に実家に戻って親戚に連絡。しかしそれから何時間も経たないうちに姉からすぐに戻るようにと連絡があり、急いで病院に戻りましたが一歩及ばず私と母は父を看取ることができませんでした。

ベッドの上で静かに眠る父。
握った手にまだ残るぬくもり。
しかしその手は私の手を握り返すことはありません。
姉の話では本当に眠るように逝ったそうです。

 

思えば30年ほど前に母に心臓の病が見つかった時から父は自分が母を看取るつもりで生きてきたと思います。
私も姉も、そして母自身もそうなるだろうと思っていました。
母方の祖父が祖母が亡くなって半年ほどしてから後を追うように亡くなり、祖父のように妻に精神的依存の強かった父でしたから、母が亡くなって生き甲斐を失ったら祖父と同じような最後を迎えるかもしれないとぼんやり思っていました。

 

70年というのは決して長い生涯とは言えないこの時代。
父の人生は満足できるものだったのだろうか。
悔いはなかったのだろうか。
私と最後の言葉を交わしたあの日でさえ「お母さん、ちゃんとご飯食べてるんだろっかなぁ」と自分のことより母の心配をしていたくらいなので、母が最後を迎える時まで一緒にいられなかったことが唯一の心残りかもしれません。
せめて天国では何の心配もなく過ごせるように、残された私たちで母を支えていこうと思っています。

2件のコメント

  1. ご愁傷様です。

    わたしも昨年、父親を亡くしました。

    明後日は、早いもので一周忌を行います。

    お互い、残された母親を支えていきましょう。

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