一度戦争が起これば敵も見方もたくさんの人が死ぬ。
戦争に勝っても負けても終わったあとには憎しみと悲しみが残る。
私は戦争になんて行きたくないし、戦争で死にたくもないし、相手を殺したくもない。
それが私の家族や友人だったとしても同じ。
ほとんどの日本人、いや世界中の人たちが同じ気持ちではないかと思う。
世界に誇れる平和憲法を有する日本。
日本の役割は同盟国と共に戦うことではなく、同盟国が戦わずに済むように助けることではないか。
銃の所持が認められている国では他者を攻撃するつもりの無い人でも護身のために銃を持つ。
銃があるから銃を持つ。
だったらこの世から銃そのものがなくなってしまえばいい。
「自衛以外の武力を行使しない」としている日本が「時と場合によっては武力を行使する」と考えを変えるのは、これまで所持していなかった銃を持ち、同盟国の敵に銃口を向けるということ。
相手が銃を持ったから、こちらも銃を持つ。
平和とはまるで逆行している。
「この国は攻撃しない」というお墨付きがあるからこそ、世界中から人が訪れ、交流が生まれ、経済が回り、信頼を得られる。
密かに銃を隠し持っている相手と友達にはなれない。
ここまで書いたことは人によっては青臭い綺麗事の理想論だと思うかもしれない。
防衛がそんなに単純ではないことはよくわかるし、丸腰の相手でも平気で殺傷する悪魔は残念ながら存在する。
しかし、理想すら失ったらその先に進むべき道はない。
今、この国が向かってる先に私たちの理想はあるのか?
多くの方が指摘してる通り、時の政権が国民の了承も得ずに解釈を変更するというのは憲法の破壊を意味する。
憲法は政府のものではなく、国民のもの。
改憲のハードルが高いのは政府が暴走するのを防ぐためであって、政府自らハードルを下げたり解釈を変えることは許されない。
安部政権の暴走を許してはいけない。
安部政権の理想は私たち国民の理想とは違う。
一度想像してみてほしい。
自分自身や、自分の家族・友人・恋人・その他大切な人たちが戦場で誰かを殺し、誰かに殺されるところを。
頻繁に伝えられる海外で起こる武力衝突やテロのニュース。
日本のメディアでは残虐な映像が映し出されることはないが、海外メディアでは目を覆いたくなるような悲しい現実を見ることができる。
戦争に加担するということは、あなたやあなたの大切な人があの中の当事者になるということ。
あれはあなたの理想ですか?
私は集団的自衛権行使容認に反対します。